「量子詩」について

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「量子詩」は、2002年1月5日から制作を開始したシリーズ。テキストとグラフからなる「方法詩」だ。初出は、メールマガジン「5日毎当日発表」(2002年3月11日発行)で配信した「量子詩第14番」のテキスト。その後も「5日毎当日発表」で順次発表している。テキストは、20文字×20行=400文字。横書き。「毎日新聞」朝刊第一面に掲載される天気予報から、私が目を覚ました地域に関する当日から4日間分の予想最低気温最高気温の引用、同日に書いた「純粋詩」の行数(各日「3・5・5・5・2/1・6・6・6・1/2・5・5・5・3」でループ)、それぞれの5日間分の数値によるテキスト。400文字を超えたテキストはカット。400文字という規定は、現代日本語でテキストを書く際のアイデンティティとして、私が原稿用紙を想定していることによる。グラフは、予想気温、行数を代入して制作。

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日本文学には、『万葉集』の時代から四季をテーマとした表現史があり、その後の詩のパラダイムを規定している。四季をテーマとする表現は、王権の世界秩序の表現と深く関わっていた。つまり、四季をテーマとすることによって、自然の秩序、宇宙の運行を表現していたのだ。このことは、和歌の内容、形式の両面に大きな影響を与えている。文学黎明期の和歌は、神の啓示として、あるいは神への祈りとして、自然現象の季節感を詠んでいた。現代からみれば、自然現象の擬人化として神存在を認識していたとも言えるだろう。そして、この伝統の形骸化の果てに、現代文学の自然描写がある。現状批判として文学の始源を意識した上で、現在の表現として自然描写を捉え直したときに、「仮想実在(ヴァーチャル・リアリティ)」という描法が現れる。つまり、ある環境=実在の織物をどのような水準に設定し計算するか、という問題。これこそが、現代の文学の課題であろう。

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量子コンピュータの研究者として知られる理論物理学者、デヴィッド・ドイッチュの著書『世界の究極理論は存在するのか──多宇宙理論から見た生命、進化、時間』(原題『The Fabric of Reality』1997)による実在の織物はとてもリアルだ。同書の第5章「仮想実在」には、「仮想実在は単に、物理的環境のふるまいをコンピュータでシミュレートするための技術ではない。仮想実在が可能であるという事実は、実在の織物に関する重要な事実である。それは計算だけではなく、人間の想像力と外的体験、科学と数学、芸術と虚構の基礎でもある」と書かれている。ドイッチュによれば、実在の織物は、量子論、進化論、認識論、計算理論の“四本の撚り糸”からなる、という。

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「量子詩」というタイトルは、量子論からとられている。量子論の特徴は、世界を確率によって描写する点にある。これは20世紀を象徴するパラダイムだ。私は、量子論による描法を文学に用いることを以前から考えていた。なぜなら、文学が他ジャンルに比べ、ニュートン的な(古典物理学的)世界認識に安住し続けているからにほかならない。もはや、世界をイデオロギーによって意味付けるテキストには、意味も価値も見いだせない。いまや文学は、同時多発的に並行する現象を認識するための「説明」として要請されているのだ。そのひとつの描法として「計算可能性」という視点がありえるだろう。

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オーストラリアのSF作家グレッグ・イーガンの小説『順列都市』(原題『Permutation City』1994)は、現在只今の世界認識に基づく新しい文学だ。批評家、東浩紀は、イーガンについて、次のように書いている。「彼の世界においては、「自分は自分である」と確信する意識的な存在(言葉)と、その意識を生み出す物理的な存在(物)は、別の水準の現実に属している。……中略……。重要なのは、ただ、それら複数の現実を貫く基礎構造、すなわち、計算的=論理的なパターンを探求することだけなのだ。それは「計算至上主義」あるいは「計算一元論」とでも呼ぶべき、まったく新しいタイプの世界認識である」(「計算の時代の幻視者」より)。

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「量子詩」では、古典に倣い四季をテーマとして、現代の気象学による大気運動のシミュレーションである天気予報を引用することで、詩を構成している。そして非線形的な大気運動と、線形的で極私的な「純粋詩」のシステムが並行している。シミュレーションによって日々刻々と更新される数値は、多時空的な世界描写だ。「量子詩第127番」によれば、2003年9月22日のシミュレーションでは25日の予想最低気温最高気温は、22度27度。23日のシミュレーションでは、21度28度。24日のシミュレーションでは、21度27度。25日当日のシミュレーションでは、18度27度。「純粋詩」はいずれのシミュレーションのもとでも25日には5行書かれる。そして、22度、21度、18度の予想最低気温と、27度、28度の予想最高気温というそれぞれの数値は、異なる世界へ分岐する端緒となっている。

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「わたしたちは、ある事象のとりあわせのうちの、さらにひとつの組みあわせかたを知覚し、そこに住んでいる。しかし、その組み合わせが唯一無二だという道理がどこにある? 私たちの認識するパターンが、塵を首尾一貫したかたちで並べる唯一の方法だと信じる理由はない。何十億という別の宇宙が、わたしたちと同時に存在しているに違いない──それはすべてまったく同じ材料からできているが、並べかただけが違う」(グレッグ・イーガン『順列都市』より)。「量子詩」は、「純粋詩」を書くという詩的営為の視点から書いた、世界の可能性をしめした喩である(視点という観測問題はどこまでもつきまとう)。この喩がしめそうとしているものは、ドイッチュの用語で言えば、カゲテ環境にあたる。カゲテ環境とは、「論理的に可能な環境だが、いかなる物理的に可能な仮想実在生成装置によっても提示できないもの」。

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私は、「純粋詩」の定義を、「たんなる記号とたんなる語順、その連鎖によって生じるたんなる韻律による文字列」としている。これは詩のテキスト一般に適応できる定義だと私は考えている。「量子詩」のテキストにおいても同様だ。ここでは記号は、予想最低気温最高気温と、純粋詩の行数であり、現象として、非線形の文字列、線形の文字列を構成している。語順はシミュレーションの時系列。また、「量子詩」は、テキストよりもグラフとして視覚化された際にそのコンセプトがよりあきらかになるかもしれない。重要なことは、シミュレーションによって得られた個々の数値と、行数が並行する多時空的な様なのだ。このコンセプトが反映されていれば、「量子詩」は、どのようなメディアによっても「量子詩」である。私はすでに、「量子詩」を五線譜にして演奏もしている。

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新聞を用いた詩の試みは、ダダや北園克衛のプラスティック・ポエムにもみられる。「量子詩」は、ロラン・バルトが「物語の構造分析序説」のなかで「物語は、神話、伝説、寓話、おとぎ話、短編小説、叙事詩、歴史、悲劇、正劇、喜劇、パントマイム、絵画、焼絵ガラス、映画、続き漫画、三面記事、会話の中にも存在する」と書いていた「三面記事」に関連があるだろう。もっとも「毎日新聞」の天気予報は一面記事だが。

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東浩紀「計算の時代の幻視者──フーコー、ディック、イーガン」(「SFマガジン」2003年8月号所収)。グレッグ・イーガン『順列都市』(ハヤカワ文庫1999年)。岩崎俊樹『数値予報──スーパーコンピューターを利用した新しい天気予報』(共立出版株式会社1993年)。小倉義光『一般気象学〔第2版〕』(東京大学出版会1999年)。川上紳一『縞々学』(東京大学出版会1995年)。九鬼周造『いきの構造』(1930年「思想」に初出。『九鬼周造全集第1巻』所収、岩波書店)。デヴィッド・ドイッチュ『世界の究極理論は存在するのか──多宇宙理論から見た生命、進化、時間』(朝日新聞社1999年)。ロラン・バルト『物語の構造分析』(みすず書房1979年)。古橋信孝『古代都市の文芸生活』(大修館書店1994年)。古橋信孝『古代和歌の発生』(東京大学出版会 1988年)エドワード・ローレンツ『ローレンツ カオスのエッセンス』(共立出版株式会社1997年)ほか。