「純粋詩」について(「方法詩とは何か?」改題)

■方法詩との関わり
 方法詩は、今回の展覧会(「融点・詩と彫刻による」うらわ美術館2002年12月〜2003年2月開催)に作品を出品している篠原資明氏が、1992年から使用していることばです。私が自分の作品を方法詩と称したのは、2000年1月1日に美術家中ザワヒデキが起草した、還元主義をモットーとする「方法絵画、方法詩、方法音楽(方法主義第一宣言)」(注1)に立会人として関わり、「方法」の同人活動を始めたときからです。「宣言」の補遺一には「(篠原)氏の活動に敬意を表しつつ、同語を拡大・再解釈して用いる」とあるように、氏の方法詩との異同を断ったうえでこのことばを使用しています。
 篠原氏は、現在の詩のあり方を定型詩、偶成詩、方法詩と分類したうえで、自らの作品を方法詩としています。氏の定義によれば、定型詩は短歌、俳句、ソネットなど伝統詩。偶成詩は「行きあたりばったりにひとつひとつの詩を書いていくという、現代詩人におなじみの」詩(篠原資明『まぶさび記──空海と生きる』弘文堂2002年)。方法詩は「型を決めたうえで、それにのっとって」(同前)作られる詩としています。野暮な説明をするよりも、氏の粋な実作をご参照いただきたいと思いますが、一方で、氏の作品には、極めて鋭い現代詩への批評があることを忘れずに(注2)。
 「方法」における方法詩は、「方法に服する」「現代の詩の状況への批判」という点で氏と同じ範疇ですが、先の「宣言」中で、氏の方法詩とは異なった意味付けをしています。「方法詩は、私情と没入を禁じて方法自体と化した文字列である。ただし抒情を叙事する実際の文字は、周到に他の記号に代替されることもある」と。つまり「方法」は、還元主義というくくりで、内容の捨象を前提としているのです。
 ところで、私は、90年代中頃から意識して詩を書くようになりました。当時、現代詩の世界では湾岸戦争に関わる詩の是非をめぐり、詩に何ができるか? といった話題がありました(注3)。詩と社会の関係を考えたときに、私は、何が詩で、何が非詩なのかが分からないことに気づきました。そして「これこそ詩なのだ」という論理化をすることによってしか、詩作品では何も発言できないのではないかと考えるようになりました。そんな試行錯誤の時期に篠原氏の作品に出会い、ひとつの解答をみつけた思いを抱きました。そして、その延長線上で中ザワヒデキの「方法」の活動に賛同し、還元主義的な詩を書くようになり、現在にいたっています。こういった経緯なので、じつは自作に関して「方法詩」と強調するよりは、「これこそ詩なのだ」と言いたいのです。元来、詩は、なんらかの方法意識に裏打ちされた論理的な文字列だと思います。そういった意味では、方法詩ということばは、同語反復だとさえ言えるでしょう。それはそれとして、以下に、私なりの方法詩論を述べてみます。

■神謡の方法論
 「これこそ詩なのだ」だ、と呼べる作品を想定する際に、私は、詩の発生時の定義を検証するという手段をとりました。最もミニマルな詩の原理が看取できるのではないかと考えたからです。歴史的な詩の発生を考えると、五七調の短歌や長歌が想像されがちだと思いますが、それ以前の詩に範をもとめました。一般的に、日本の詩は、古代に神謡として発生したと考えられています(注4)。
 神謡の時代の世界観は、神の世界と人の世界という対の関係を機軸に、事象を二分していました。この時代の声や文字は、生活に大きな影響力を持ち、呪的な記号として感受されていたと考えられています。そこで日常言語の対として、神の言語が要請され、それが神謡となったことは自然なことだったといえるでしょう。
 神謡を語ったのは、二分された世界の媒介者である巫女です。しかし巫女といえども、常態では日常言語を使っていたはずで、神の言語が出現したのは、憑依したときだけだったと思われます。現代的な心性から考えると、巫女は常に憑依できるように装う様式を職掌上必要としたと思われます。つまり神謡は、先ず巫女個人のものとして、それから巫女が属する共同体のものとして様式化されていったのでしょう(注5)。
 では、具体的に日常言語をどのように装い、神の言語としたのでしょうか? 古橋信孝『古代和歌の発生』(東京大学出版会1988年)は、神謡の様式的特徴を、接頭語、敬語、枕詞、重ね、繰り返し、音数律、旋律、発声としています。これにそって『万葉集』巻頭にある、雄略天皇の神謡をみてみましょう。
1 籠毛與(コモヨ) 美籠母乳(ミコモチ)
2 布久思毛與(フクシモヨ) 美夫君志持(ミブクシモチ)
3 此岳尓(コノヲカニ) 菜採須兒(ナツマスコ)
4 家告閑(イヘノラセ) 名告沙根(ナノラサネ)
5 虚見津(ソラミツ) 山跡乃國者(ヤマトノクニハ)
6 押奈戸手(オシナベテ) 吾許曽居(ワレコソヲレ)
7 師吉名倍手(シキナベテ) 吾己曽座(ワレコソヲレ)
8 吾許背齒(ワレコソバ) 告目(ノラメ) 家呼毛名雄母(イヘヲモナヲモ)(注6)
 接頭語は1、2。敬語は6、7。枕詞は5。重ねは1、2、4。繰り返しは6と7。音数律は、三四五六五五五五四七五六五六五三七という特殊なものです。8の歌い結びは、『万葉集』中に類例があるので、神謡の様式のひとつだと推測されます。旋律、発声は、当時の言語観と文化人類学的知見から推測するしかありません。
 換言すると、接頭語、敬語、枕詞は、非日常的記号。重ね、繰り返しといった構成は、非日常的語順。記号と語順の連鎖によって生じる音数律は、非日常的韻律と言えるでしょう。ここで言う非日常とは、神の世界です。詩は非日常的要素から、神謡という形態で発生したといえるでしょう。

■「純粋詩」について
 20世紀にいたると、近代化の名のもとに神は死にました。これは、自然観の革命といってもよいでしょう。つまり、神から科学へと世界観の根拠が委譲されたということです。自然の擬人化から、数値化へというとわかりやすいでしょうか。こうした現代の世界に生きる私にとって、神のいない神謡(あるいは数値化された神謡)こそが、時代の要請に応えた「これこそ詩なのだ」と言えるものになると思えます。そういった意識で、私は「純粋詩」という作品を制作しました。
 先ほどの神謡の定義を「非日常的記号と非日常的語順、その連鎖によって生じる非日常的韻律による文字列」とします。これに対して、神のいない時代の詩である「純粋詩」の定義は、「たんなる記号とたんなる語順、その連鎖によって生じるたんなる韻律による文字列」と言えるでしょう。ここでいう「たんなる」とは、適当という意味ではなく、たんなる自然現象という意味です。つまり、自然界に遍在するシステムを擬人化せずに用いることを指しています。
 「純粋詩」は、2001年1月7日から制作を始めました。2002年からは、5日毎にHP上で発表しています。2002年12月16日現在85編が発表されています。1篇は、二十文字×二十行の原稿用紙状のフォーマットに四百の記号を並べたものです。このフォーマットは、現代日本で文学を行うということのアイデンティティとして選択しています。用いられる記号は、たんに書かれた文字であるべきだと考え、書く行為と意味が一致する「一」「二」「三」という指事の漢字を選びました。この記号は、数であり、順番であり、量であり、動きです。語順は、規則的な並べ替え。順列組み替えです。その結果、重ね、繰り返しが多様に発生し、記号との連鎖で“豊穣な韻律”が機械的に生成されていきます。語順は、規則的な並べ替えによって決まっているので、まだ書いていない先の展開もすでに決まっています。ですから、「純粋詩」は、常に、あるいはすでに、そして永遠に存在するともいえるでしょう。私は、この遍在性こそが「純粋詩」のポイントであると考えています。さらに踏み込んで「純粋詩」を捨象していくと、詩は、書く行為すら必要のない段階に到達します。最後に、個人的な好みも含めて、中島敦の作品『名人伝』の一節を引いて話を終えたいと思います。
「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ること無しと」。
 以上、説明不足もありますが、これが現在の私の方法詩論の到達点です(注7)。

(注1)「方法絵画、方法詩、方法音楽(方法主義第一宣言)」は、http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/method/index.htmlを参照。「方法」を知る上の参考文献として中ザワヒデキ『西洋画人列伝』(2001年、NTT出版)。中ザワヒデキ「方法詩論」(「現代詩手帖」2000年4月号所収)。
(注2)『サイ遊記』(思潮社1992年)『滝の書』(思潮社1995年)、超絶短詩集『物騒ぎ』(七月堂1996年)、『平安にしずく』(思潮社1997年)、『愛のかたち』(七月堂2001年)超絶短詩集『玉枝折り』(七月堂2002年)など。
(注3)藤井貞和 『湾岸戦争論 詩と現代』(河出書房新社1994年)。藤井は、詩人であり『源氏物語』研究の第一人者である。私見では、藤井の作品も方法詩だ。『古日本文学発生論 増補新装版』(思潮社1992年)、『詩の分析と物語状分析』(若草書房1999年)など詩論も多い。
(注4) 本稿では、五七調の長歌、短歌以前の詩を神謡とする。
 詩の発生については折口信夫『古代研究(國文學篇)』(1929年)、西郷信綱『詩の発生』(未来社1960年)、『初期歌謡論』(ちくま学芸文庫1977年)、古橋信孝『万葉集を読み直す』(NHKブックス1985年)、高橋睦郎『読みなおし日本文学史』(岩波新書1998年)を参照。
(注5)時代が下ると、共同体間に交流がうまれ、支配、被支配の関係ができる。交流の中で、被支配層の神謡が、支配層にとりこまれ整序、再編される。最終的に、王権を確立した朝廷によって、五七音数律の繰り返しと七七という終止形をもつ神謡が成立した。これが短歌(長歌)様式だ。実際『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)の神謡の多くは、五七調に整序されている(と思われる)。
 元来、神謡には、相当のヴァリエーションの音数律があったと推測される。なぜなら五七調は必ずしも日本語に適した音数律とは言えないからだ。例えば、日本語文化圏に属する琉歌は、八八八六という音数律だし、文中に引用した神謡も変則的だ。
(注6) 表記、読みは伊藤博『万葉集釋注 原文篇』(集英社2000年)。改行は西郷信綱『万葉私記』(未来社1970年)。便宜的に改行をほどこしたが、当時、改行という概念は無い。詩は一次元の文字列として書かれていた。
(注7)私は篠原資明氏のまぶさび詩というシンプルな方法詩に注目している。氏はこの詩は心を鎮めるものだという。宗教との回路としてこの詩を位置づけているのだ。氏の交通論からすれば自然のことなのかもしれないが、まぶさび詩は、21世紀の神を見つける(ねつ造する?)かもしれない。

*本稿は、『融点・詩と彫刻による 報告カタログ』(うらわ美術館 2003年)所収の原稿を改稿したものです。